「善と悪」と「存在と非存在」という二つの命題は、同じカテゴリーのものとは違います。 「善と悪」はわりあい限定的な命題で、ある意味ローカルなセオリーに近いようなものですが、「存在と非存在」は、根源的な問いになります。 このような問題と対面して、シャギーさんがやさぐれてしまうのは無理のないことなのですが、宇宙全史の探求には、こうした脅威は常について来ます。 それ故私たち探求者は「戦士」としての有り様をまず獲得しなければならないということがあります。 それがないと人は世界の謎に直面すると、最初は興奮状態でいられますが、次第に衰弱していき、やがて自ら存在を否定するようになっていきます。 世界の謎に挑むには、日常性の常識(愚かさ)だけを武器にすることは出来ないのです。 自らの愚かさを笑い飛ばせるほどの度量がないのなら、キャパを超えた謎に向き合った時、平静さを保てないならば、せめて五井先生のお祈りから始めることをお勧めします。 「世界の謎」とは、「本当の謎」のことで、「単なる未知」ではありません。人間性を超えた「非人間的な謎」というのは、世界のほとんどを占め、人が探求心を満足させる謎とは「単なる未知」に過ぎません。 そして「単なる未知」とは、「既知になり得るもの(人間が理解出来得るもの)」ですが、その範疇を超えたものは「不可知」として、私たちには触れることが出来ないものになっています。 或いは禁忌として触れてはいけないものとなっています。 宇宙全史の情報には、この不可知の謎も見え隠れしていますので、弱いエゴを保有したままそこに触れますと、たちまち疲弊していくことになります。 この頃の私はもちろんそういう事は知ってはいましたが詰めが甘く、人類の愚かさの根深さというものを甘く見ていた節があります。 ここから10年以上、私は自らの愚かさも含めて、人類の愚かさとの戦いを余儀なくされていくことになります。 |